わたしの中の『資本論』

*働きながら、『資本論』を勉強しています。

ロシアのウクライナ侵略戦争に反対! 米欧の対抗的軍事支援に反対! ――沖縄戦から見るロシアとウクライナの戦争

 子どもの日に、友人に誘われて、神田香織さんの講談「沖縄戦―ある母の記録」を聞きに行きました。この講談は、沖縄戦でふたりの子どもと夫、母親ら親族を11人失くした・沖縄戦語り部の安里要江さんの手記をもとにしたものです。

 ロシアのプーチン大統領ウクライナに軍事侵略をしてから2ヵ月余がすぎてしまいました。この侵略は、いかなる理由を付けようと、絶対に許すことはできないと思います。プーチン大統領は、マウリポリのアゾフスタリ製鉄所の地下シェルターに避難している子供たち・女性・高齢者がいることを承知の上で、爆撃をやめようとはしません―― そのようなウクライナが戦場になっているときに、わたしは神田さんの講談を聞きました。

 神田さんは、沖縄戦で、住民や日本兵が隠れていたガマ(鍾乳洞)の中の様子を、ジメジメとしていて、鼻をつく屎尿や死臭、垢まみれの身体の臭さで充満していた、と力を込めて会場に響き渡るような、しかし、低く、唸り声をあげるように語ってくれました。証明の明るさも落とされた会場で、わたしは、まるで自分がガマの中に居るかのような錯覚を覚えました。わたしは、神田さんが語る光景を全身で受けとめながら、TV報道と重ねていました。ロシア軍からの攻撃が続く中、アゾフ大連隊(ウクライナ内務省管轄)が抵抗を続ける・アゾフスタリ製鉄所の地下シェルターは湿気がひどく、避難してきた人たちが持ってきた衣料と同じように、傷口が腐っている――とTVでは報じていました。その衣類にはシラミが、傷口にはウジが湧いているのではないか、と思いながら、わたしは神田さんの講談に聞き入っていました。

 神田さんの語りは続きます。後に語り部となった安里さんは、乳飲み子を抱えながら11人もの親族とともに、アメリカ軍の砲弾を避けようと、ガマに入ろうとしました。でも、日本軍の兵士に入らせてもらえず、やっとのことで蝙蝠の住み家のガマにたどり着きます。

 ここでは、お腹をすかせた子どもたちが泣いたり、お乳が出ないので赤ん坊が泣くと、米軍に居場所が知れることを恐れた日本兵が、「子どもを泣かすとバレてしまう、子どもを泣かすと始末するぞ」と銃剣をつきつけて脅すのです。〝始末〟は、実際に行われました。

 アゾフスタリ製鉄所からは、避難した民間人たちが人道避難していると報道されています。しかし、アゾフ連隊の隊長が、「民間人がいると、思いっきり戦えないんだよ」とつぶやいていた映像が、一瞬TVで放映されたことを思い出しました。わたしは、この言葉を聞いて、兵士にとって、民間人は作戦の足手まといになる存在なのだと感じ、ぞっとしました。

 さて、沖縄戦では、根こそぎ動員が行われました。ウクライナでは、ゼレンスキー大統領が、「国民総動員」体制を敷いて、18歳から60歳までの男性の国外脱出を禁止しました。まさに、「根こそぎ動員」です。そして、一般市民に軍への召集令状(日本のいわゆる〝赤紙〟)を届けたのです。届出先は、なんと、市民が国外避難したポーランドにまでにおよびました。また、ゼレンスキー大統領は、国外脱出を図る男性に対しての拘束も命じています。

 このことは、権力を持つ為政者や資本家たちにとっては、労働者やその家族たちの命より、国家を守ることが大切なのだ、といっていることを意味すると思います。わたしは、泣きながら「死にたくない」と訴えていた子どもたちの顔が目に焼き付いています。日本にいるわたしに、何かできることはないでしょうか? わたしは、ロシア国内で、官憲に負けずに、反戦デモを行うロシア市民に希望を見出しています。わたしも、この機に「改憲」や原発推進を目論んでいる日本政府に、「NO! WAR」を訴えようと思います。ゼレンスキー大統領は、欧米諸国に〝スイーツはいらない! 武器をよこせ!〟と訴えています。ウクライナへの武器供与は、この戦争を長引かせることにつながります。その結果、アメリカの軍需産業は、ぼろ儲けしています。まるで、「アメリカはウクライナ戦争を愛している」(インド・リパブリックTV)かのようです。これ以上、一般市民の犠牲者をださないために、ロシアもウクライナも武器を捨てることです。

 戦争による一番の犠牲者は、戦場の非戦闘員たる労働者やその家族、病人やけが人、障害者、高齢者たちです。そして、最前線に送られてお互いに殺し合いを強制されている兵士たちもまた、犠牲を強いられた労働者なのです。沖縄戦がわたしたちに教えていることは、労働者やその家族たちが起こした事ではない戦争を止めるためには、労働者やその家族たちがそれぞれの為政者たちに「No! WAR」を訴え、それぞれの国の労働者やその家族たちが国際的に連帯することだと思います。

 それが、沖縄に昔からある・「玉砕」のアンチの意味を持つ「命(ぬち)どぅ宝」という考えにもつながります。戦争の犠牲者たちは、今でも、戦争美談の役者にされてはならないのだ、とわたしは思います。

                            (2022.05.05)