わたしの中の『資本論』

*働きながら、『資本論』を勉強しています。

「会計年度任用職員制度」は、いったい誰が得をするの??(*その1)

 私は、中小企業で働くパート労働者です。自治体職場で働く友人の裕さんの職場も民間に劣らずひどい、と思いました。

 友人の裕さんは、11年間自治体で事務補助のアルバイトをしていましたが、昨年の4月から「会計年度任用職員」に身分が変わりました。なんか、常勤職員に近づいたかな? ボーナスも出るって聞いたし~と裕さんは期待していました。

 時給は少し上がって、コンビニのアルバイト並みになったそうですが、6月のボーナスは支給されなかったそうです。裕さんは納得できずに、人事係に掛け合いました。そうしたら、「あなたは、対象者ではない」と言われたそうです。

 私は、この話を聞いて、働く場はちがうけれど、裕さんの悔しさは、身にしみてわかりました。労働者をそうやって競わせて、孤立させ、団結させないようにする自治体当局のやり口に怒りを覚えました。

 私は、裕さんと一緒に、なんでこんなことになっているのかを考えてみました。裕さんは、国民健康保険係で、長年働いていたので、3年ほどで異動していく常勤職員よりよっぽど仕事に精通していると自負しています。しかし、裕さんは、そうやって自分を常勤職員と比べ、自治体当局に自分を高く評価してもらいたいと思っていました。これでは、雇い主である自治体の首長の思うつぼではないでしょうか。薄給で、昇給もめったになく、ボーナスもありませんでしたが、常勤職員から指示される仕事を一度も嫌がりもせずに行い、職員からの信頼が厚かったので、繁忙期には11年間働き続けられていました。

 けれど、この「会計年度任用職員制度」に変わってからは、4月から翌年の3月までの1年度の雇用で、毎年試験があり、振り落とされる=雇止めの可能性が十分あります。翌年の採用の保証はありません。

 この「会計年度任用職員制度」は、自治体の好きなように有期雇用=雇止めを可能にするための合法化ではないでしょうか? 自治体によっては、ボーナスを支給する代わりに、毎月の給料を削るところもある、と裕さんは教えてくれました。年収にすると、従前より下がってしまうこともあるのです。こんなことが許される?

 わたしたちは、こんなことには負けないぞ! 

 万国の労働者たちよ、団結しよう!(マルクスさん)

生活保護費減額は、「適法!」 これが資本の精神!

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やっ、ヤバイ! 236円であと何本人参が買えるかな?


 3月29日、札幌地裁は、2013年から2015年の生活保護費削減処分の取り消しを求めた訴訟に対して、「適法」という判決を下しました。約1ヵ月前に大阪地裁が「違法」としたことに対するアンチです。

 大阪地裁は、2月22日、生活保護費基準の引き下げは、「消費物価指数よりも著しく大きい下落率を基に改定率を決めており、統計などの客観的な数値との合理的関連性を欠いた」、と大阪地裁判事は判断し、生活保護受給者の訴えを認める判決を下しました。

 つまり、厚労相による保護費削減の判断過程に、裁量権の逸脱があったことをみとめ、「違法」としたのです。

 札幌地裁の武田裁判長は、「生活扶助基準の改定で、厚生労働相裁量権の逸脱があったとは言えない」と判断。その上で、原告らの生活が「社会的、文化的面から見ても、最低限度の水準を下回っていると認められない」と結論付けました。憲法にも違反していない、ということです。

 さて、これが、首相が「最後には、生活保護があります」と主張する最後の「公助」の真実です。

 コロナ禍で労働者は、職を失い、住居を失い、命を失うという中で、生活保護費の削減に苦しむ利用者にビンタを食らわす判決に、私は怒りを覚えます。これが、コロナではっきり見えてきた、資本主義社会の矛盾です。

 マルクスは、『資本論』のなかで、次のようにいっています。

「……あとは野となれ山となれ! これが、あらゆる資本家およびあらゆる資本家国民の標語である。だから、資本家は、労働者の健康と寿命にたいしては、それを顧慮することを社会によって強制されるのでなければ、なんら顧慮しない。肉体的および精神的な委縮・若死・過度労働の責苦・にかんする不平については、資本家は答えていう、―― そうした苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)を増すというのに、なんでわれわれを苦しめようか? と。」

 これが、資本の精神です。

 裁判所の判決は、この精神を代弁したものだと思います。

「最終的には生活保護がある」発言で見えた1%の側の人間の気持ち

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炊き出し会場から足早に去って行く若い女性 ……負けないで!


炊き出しに若い女性の姿も!

 いつだったか報道で、炊き出し会場から足早に去っていく女性の後ろ姿が映し出されました。解雇されて、住むところも追い出されたのじゃないか、と思いました。彼女の後ろ姿は、何度も何度もためらって、ありったけの勇気をふり絞って、やっと弁当や飲み物等が入った袋に手を出したのではないか、とわたしは想像しました。

 わたしの契約は、今月の3月までです。4月から3ヵ月再契約の予定ですが、彼女は、明日のわたしかもしれない、と思えるのです……。

 

首相の「最終的には生活保護があります」発言の根っ子にあるものは?

 今年の1月下旬、「最終的には生活保護があります」、と菅首相は言いました。このコロナ禍で、非正規労働者の失業、女性の貧困、そしてみずから命を絶つ人がふえています。首相が言う「最終的」とは、どういう状態のことを指すのでしょうか? 炊き出しの列に並ぶホームレスの人たちの状態よりももっとひどい状態のことなのでしょうか? 

 自公政権は、コロナで生活困窮者が増大し、自殺者がどんどん出ているというのに、「最終的」に「あります」という生活保護費を昨年の10月に、また減額しました。生活保護制度は、憲法第25条の理念に基づいて「生活に困っている人々に最低限度の生活を保障するとともに、その人たちが自分の力で生活していけるように援助すること」、というものではなかったのでしょうか? 2012年のお笑い芸人の方へのバッシングを機に、翌年から3年かけて最高10%の生活保護費の削減が行われました。そして、2018年から2020年の3年間で、ひとり暮らしの高齢者や子どもの多い世帯を中心に、利用世帯の67%が減額になりました。

 誰が考えても、憲法第25条で言うところの「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、のその値段が、大きく下がっています。

 しかも、その生活保護は、プライドがずたずたにされる「扶養照会」が親類縁者に送られたり、預金や貯金高を調査して、残金が明日の暮らしが立たないことが証明されたのち、やっとこさ受けられることになります。これが、最後の公助の姿……。

 

2013年から2015年分の保護費の減額は違法! 大阪地裁の判決

 2月22日、2013年から2015年の生活保護費基準の引き下げは、「消費物価指数よりも著しく大きい下落率を基に改定率を決めており、統計などの客観的な数値との合理的関連性を欠いた」、と大阪地裁判事は判断し、生活保護受給者の訴えを認める判決を下しました。

 裁判長によれば、政府は、物価が下落したとする根拠を、石油製品や食料などが大幅に値上がりした2008年を起点にして、その後の3年間の物価下落率を反映させたとのことです。また、物価下落率の算定根拠とされた厚生労働省の指数には、生活保護世帯では支出割合が低いテレビやパソコンなどの大幅な値下がりが反映されていたそうです。

 つまり、生活保護費は、厚労大臣が裁量によって決めて良いことになっているけれど、そんなでたらめな「根拠」で勝手に下げるのは、「裁量権」の乱用である、ということ。大阪地裁判決は、政府の判断に間違いはないとした昨年の名古屋地裁判決と大違いです。

 生活保護費の引き下げをめぐって全国で訴訟が起こされていますが、引き下げを違法として取り消す判決が出されたのは、はじめてとのことです。

 

大阪府内全12市が控訴!

 先の大阪地裁判決を不服とした大阪府内の全自治体(12市)が、判決を不服として3月5日控訴しました。

 この判決が確定すると、厚労大臣は、2013年にさかのぼって、減額した保護費を返還しなければなりません。そうなったら大変と、12市が一致団結して、攻勢に出てきました。

 この判決が確定すると、生活保護基準と連動しているさまざまな社会保障制度に影響が出てきます。

 

1%の側にたつ首相の発言!

 あっ、そうそう、首相は、生活保護の意義を認めていらっしゃいましたね。でも、所詮、生活保護費は、〈死なない程度に食えりゃぁ~いいんだろ!〉ということなんだ、とはっきり見えてきました。

 

でも、なんでこういとも簡単に、労働者は首を切られるのでしょうか?

 マルクスは、『資本論』の中で次のように言っています。

 「資本制的生産は、商品の生産であるばかりでなく、本質的には剰余価値の生産である。労働者は、自分のためにでなく資本のために生産する。……彼は、剰余価値を生産しなければならない。資本家のために剰余価値を生産する労働者、または資本の自己増殖に役立つ労働者だけが生産的である。」

 だから、資本家は、自分の都合で、労働者をいつでも簡単に解雇する、ということなのでしょう。労働者の立場は、弱い‼ なぜなら、生活手段を得るために売ることができるものは、自分の労働力しかないからです。

 わたしの希望する社会は、社会保障などがなくても、みんなが安心して暮らせる社会です。

(2021.3.17)

 

鴨下さんの発言に いいね!!

 昨日(3月11日)、東京電力本社前で、「福島第一原発事故から10年」の追悼・抗議集会がありました。わたしは、18歳の鴨下さんのスピーチに感動しました。列車の音で聞き取れなかったので、ドンドン前に進みました。メモできたことを紹介します。「…汚染された大地や森が、元どおりなるには僕の寿命の何倍もの歳月が必要です。だからそこで生きていく僕たちに、大人たちは汚染も被曝もこれから起こりうる被害も隠さずに伝える責任があると思います。嘘をついたまま、認めないまま、先に死なないでほしいのです。被曝の害は、まだその一部しかみえません。被害者に10年目の節目などありません。むしろ10年目の節目だと言って過去のことにしてしまいたいのは、東京電力や国だと思います。」

 責任ある大人のひとりとして、わたしは、原発をつくってはいけないし、再稼働もしてはいけないと思います。原発をベースロード電源とするような資本主義は、利潤追求に走り、自然破壊を繰り返し、人間そのものを破壊していると思います。わたしは、このことを許してはいけないと思います。そして、この運動を、鴨下さんのような若い人たちとつなげていかなければ、と思います。(2021.03.12)

「あの人に迫る」**斎藤幸平さんの巻を見ました☕

 東京新聞2月20日(土)朝刊の「あの人に迫る」は、斎藤幸平さんの巻でした。タイトルがすごい! 「コミュニズムが人命と環境を守る」 なんか、素敵なことが書いてあるのかな、と思って読んでみました。

 斎藤さんは、「コロナ禍で資本主義の矛盾が明らかになってきたこと」は、「資本主義は利潤、つまり『もうけ』を無限に求めるシステム」である、ということだと主張します。そして彼は、例として、ワクチンをとりあげて、「製薬会社は利潤のためにワクチンを高く売り出す。貧しい国の人々は買えません」、といいます。「『GoToキャンペーン』をやったのは、経済を回すため。…人間が、もうけを求めるための自動装置の歯車になっている」、といいます。「人間」一般? 弱い立場の人たちじゃないの? 

 さらに、斎藤さんは、記者の質問に答えて、「人類の経済活動が、環境を破壊し尽くす『人新世』と呼ばれる時代に突入したと指摘する科学者たちがいます。大量生産・大量消費の経済を『回す』ために石炭、石油、天然ガスや、電子機器に組み込むレアアース(希土類)を大量に採掘する。東南アジアや南米の熱帯林を伐採する。修復不能な程の環境破壊が、パンデミック(世界的大流行)だけでなく気候変動をも引き起こしています」、と危機を訴えます。そして、「(資本家は)人々の安全よりも、利潤を優先するからです」、と批判しています。これは、正しい! だから、10年前にフクシマ原発事故を経験しても、まだ原発をやめようとはしません。

 と、ここで、記者が、「資本主義には、良い面もあるのでは? 無駄遣いを減らすとか」、と突っ込みます。すると、斎藤さんは、「企業のもうけを優先した効率化は、大事な物やサービスまで削ります」、といってまた例をあげています。彼は、行政が公立病院の数を減らしたことを例にあげていますが、「感染症」など儲けの少ない診療科目の削減や医療従事者の削減についてはふれていません。医療従事者が、バッシングに会いながらも懸命に人命を救おうとしているのに、なぜ? 斎藤さんは、「正社員(マルクス経済をやっているのに、正規労働者とは言わない)を削る」とは言っても、代わりに安価な非正規労働者を使う、とはいいませんね。その非正規労働者が首を切られたりして、自殺者まで出ているのに、ひと言もない!

 記者がSDGs(持続可能な開発目標)が、資本主義の下での経済成長と自然環境の保護は両立できるのではないか、と言うと、斎藤さんは、「SDGsは、百害あって一利なし。いや、現実から目をそらさせる『大衆のアヘン』です」、と記者を批判します。でも、なぜ、そのようにいえるのかについては、明確な判断根拠は示していません。

マルクスが、「宗教はアヘンだ」といったことを、真似してみただけなのでは?

 記者が、斎藤さんのいわゆる「脱成長コミュニズム」について質問しています。斎藤さんは、「資本主義に急ブレーキをかけることです」、と答えています。どうやってそれを実現するのかについて、彼は、お待たせしましたとばかりに、次のように語ります。「際限のない利潤追及をやめる。人間が住めなくなるまで、地球環境を破壊し、長時間労働に苦しみながら大量に生産・消費・廃棄する経済システムと手を切るのです。資本主義の下では金融やコンサルタント業といった中に、もうけを出す他に意味のない仕事がたくさんあります。それを禁止する。年中無休や二十四時間営業もやめ、社会全体の労働時間を大幅に縮める。それだけで生活の質は向上する。……ベルトコンベヤーの前で単純な作業を繰り返すような、単純でつらい仕事は撤廃しましょう。……『エッセンシャルワーク』を重視する。」そして、「資本家によって商品化されている生活に不可欠な物やサービス、資源や生活設備などは、これを『コモン(共有財産)』とする。労働者や市民の自発的な結社が協働で管理・運営します。もうけにとらわれずコモンに重きを置けば、人新世の危機を乗り越えられると考えています」、と主張しています。

 ここで、私には、疑問がわいてきます。それは、斎藤さんがいう「脱成長コミュニズム」というのは、マルクスの思想とはちがうぞ、ということです。資本主義社会で、労働力しか持っていないから、それを時間決めで売って命をつないでいる労働者が商品でなくなることを、斎藤さんは望んではいない、ということです。これでは、斎藤さん自身が、「大衆のアヘン」といったSDGsを他面から支えるものになっていしまうのではないでしょうか?⁉ 

 「……資本主義が続くのは仕方がない、と受け入れてはいけません」、と斎藤さんはいいますが、実は、彼は、根本的に資本主義にアンチをたたきつけているのではないのです。資本主義の持続速度を少し遅くしましょう、と言っているだけです。だから、昨年12月に、成立した「労働者協働組合法」を手放しで喜んでいるのでしょう。「コミュニズムが人命と環境を守る」、という斎藤さんの考えは、結局、国連や各国政府や資本家たちが資本主義社会の生き残りのために唱えたSDGsの下支えにしかすぎない、とわかりました。

 斎藤さんは、労働者の味方なの? 誰の回し者?

(2021.2.21)

☕「日本型 同一労働同一賃金」のおかしなところ……❓

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雇用契約の場面 資本家からみた労働の価格(こ奴の日給は5000円だ!)  

  労働力の価格?? 労働の価格??(わたしの能力を高く売らなくちゃ!)


 前回(2月5日)の続きを書きます。

 まず、「日本型」について、竹信三恵子教授が言っていることをわたしなりにまとめてみます。

 すなわち、日本型とは、〈「ウチの会社」のやり方で、会社が裁量で「同一」を決められるようなこと、すなわち、「さまざまな要素を総合的に勘案し、自社にとって同一労働と評価される場合に、同じ賃金を払うこと〉、とわたしは捉えました。

 だから、この制度は、今まで以上に非正規労働者がこき使われることが予想され、正規労働者も今後賃下げが待ち受けている、ということなのだと思います。

 さて、ここで、ちょっと“商品世界の謎解き”をしてみようかと思います。

 「謎解き」といってもたいしたことではありません。このブログを読み進めていけば、「ふぅ~ん、なるほどね、そういえばそうだわ」、と思うかと。

 わたしたちは、生活に必要なものはなんでもかんでも商品になり、お金と交換でないと手に入らない、そういう資本主義社会のもとで暮らしています。そして、「時は金なり」の諺どおりのことを経験しています。そのことを経験するのは、正規労働者であれ、非正規労働者であれ、労働者が資本家に雇われる時です。東京都なら時給1015円(※2020年改定の最低賃金は、据え置きで1013円)、8時から17時まで昼休憩1時間、とかいう時です。

 つまり、労働者は、自分たちが買っているほかの商品と同じように、自分の労働する能力を商品として、時間ぎめで資本家に売っているのです。

(@_@)労働者は、「賃金」ということばに騙されている!

 わたしたち労働者にとって、資本家に売れる唯一のものは労働力という商品です。でも、資本主義社会では、「賃金」は、その人の「労働への価値(=ねうち)」に対して、支払われているようにみえます。

 マルクスは、このことについて、「労働は、商品として市場で売られるためには、売られる以前にかならず実存せねばならないであろう。ところが、労働者が労働に自律的存在を与えうるとすれば、彼は商品を売るのであって労働をうるのではないであろう」、と解明しています(第1部第6篇第17章 労働力の価値または価格の労賃への転形)。

 資本主義社会では、一般的に、賃金が後払いであることから、雇用契約の際に労働者が資本家に売るものは「労働」であると、思ってしまいます。しかし、このことが、「かくして労賃の形態は、必要労働と剰余労働とへの・支払い労働と不払い労働とへの・労働日分割のあらゆる痕跡を消滅させる。すべての労働が支払い労働として現象する」(前掲)、とマルクスは、暴露しています。

 資本家にとっては、雇用契約を結び、その労働者の持っている商品(=労働力)を買うということは、資本家が労働者に支払うのは必要労働分の価値(=お金)だ

ということが、事後的に労働者にはわかるのです。

 労働者に支払われた賃金が、5000円/日であるとしましょう。しかし、資本家にとっては、その労働者が1日働いて10000円の価値を生み出すからこそ雇うのです。

 ここで、もう一度「日本型同一労働同一賃金」にもどりたいと思います。いままで勉強してきたことからすると、「日本型同一労働同一賃金」という制度は、国際基準を排除した自企業にとって剰余価値をできるだけ多く生産する価値のある「労働」と評価された場合には、一部「同一賃金」を支払う、といったものにすぎない、ということです。そして、連合指導部も、そのことを了承しているのです。労働者には、さらなる労働強化と労働者間の競争が強いられることが予想されます。                        (2021.02.12)

 

 

☕「日本型 同一労働同一賃金」って、いったいなんなの❓

 わたしは、今年の3月で契約が切れる中小企業で働く非正規労働者です。

 昨年10月の最低賃金の改定で、東京都は据え置き、上がるところも1円~3円で、コロナ危機の中でどうやって生活するのよ、と怒っています。

 今年の4月から昨年の大手に続いて中小企業でも「同一労働同一賃金」が始まるとのこと。なんか、正社員並みの給料がもらえるかのような期待をもたせるような制度にみえます。同じ労働なら同じ賃金を支払う、ということのようだけど、非正規のわたしたちは、素直に喜んでいいのかしら? よ~く考えると、「同一労働」(おなじ労働)って、誰が決めるの? 基準は? なぜ、「日本型」が付いているの? 

 そもそも、なぜ経団連が提言して、連合は渋っていたのはなぜなのでしょうか? 

 ジャーナリストで和光大学名誉教授の竹信三恵子さんによると、「『同一労働同一賃金』は、まず経産官僚と経営者側(経団連のトップ)の調整を通じて骨格が固められ、その後に労働者(※神津連合委員長)を加えて『労働政策』の正当性を担保し」議会に持ち込まれたとのことです。これを聞いたら、なんなの!? という感じです。喜べるわけがない! マスコミは、「非正規労働者にも手当や賞与がつくようになった」、とばらまいているけど、同じような仕事をしている正規と非正規の基本給の是正がどうなっているのかは伝えていません。

 さて、連合が渋っていたわけは、非正規の賃金の増加分をどこから出すのかを考えたときに、正規の賃金が削られることを予想したからではないのでしょうか?

なんと非正規をばかにしています。 今春闘でも、連合幹部は「非正規労働者の待遇改善を!」などとすらっと、いってのけているのです。

 悔しさを噛みしめながら、わたしは、「日本型同一労働同一賃金」のまやかしを暴く鍵が『資本論』の中にあるのではないか、と思います。学びつつ考えていきたいと思います。

 新型コロナの中でも、未来に向かって歩んでいる皆さんからのコメントをお待ちしています。お互いの励みになると思います。(2021.02.05)